気功学の未来へ  

焦国瑞 ・湯浅泰雄 ・間中喜雄 ・池見酉次郎 対談集

創元社 刊

東洋哲学の人間観

心と身体の統合



湯浅・・・

焦先生ご自身のご体験からお聞きしたいのですが禅では心身一如などと言いますがこれは心の働きと身体の働きとが完全に統合された理想的な状態を指しています 気功の練功の場合もそれと同じようなことがあると思うのです 先生ご自身は気功の練功を通じてそういう状態をどうお考えでしようか
少し説明を付け加えますと日本の武道や芸道の考え方は仏教の芸術論から大変影響をうけています そこでは実践的な訓練を経て心身の関係が一つになってゆく過程を重要視します スポーツでも武術でも初歩の段階では心で思った通りに身体が動かない 訓練を通じて自由自在に心のままに身体を動かせるようになる つまり心と身体の相関関係というのは元来あるものだけれども普通の状態ではその統合の仕方が弱い それを訓練を通じて高めてゆく過程が修行です 心身一如のわざといった言い方はそういう実践の過程をベースにした考え方を示しています
ここから出てくる一つの問題は二元論の克服の仕方です 心と身体の関係またそのベースには精神と物質の関係という間題がありまず 東洋の伝統ではこの問題をまず実践の場でとらえてそこから二元論の克服を考えます 気を純化してゆくという内丹や練功の過程はそういう実践の過程にかかわっています ところが西洋の場合二元論の克服というのは理論の問題であって訓練とか実践は関係がない 実践は応用問題にすぎません 二元論の克服と言えば一般的に心と身体の二元性をこえた理論をつくることが目標になります 私はアメリカで出版した英文の著作でそういう実践的体験の立場をベースにして心身関係をとらえてゆくところに東洋的な哲学の一つの特徴があるということを説いたわけです

焦・・・

これは気功の根本的な問題にかかわるものです
ここで心身一如心身の脱落という状態が一元論なのか二元論なのかということですが西洋的な考え方の特徴としてはまず理論から入っていってしまい実践から入ることが少ないのです それではいつまでたっても二元論を克服することはできません そこで東洋的な実践から入っていくことによって決着を求めるという方法が必要となってくるでしよう これはものの考え方であり一つの世界観であり哲学です
現在西洋の哲学者がそのあたりに気づいて理論から理論を重ねていくだけで問題を解決できるのだろうかということを盛んに模索しています 世界観というのは世界を観察するための方法の一つです 西洋においても東洋的な世界観に近づいてきている哲学者はまだ多くはありませんが確かに多くなってきています
そして哲学の領域でこうした哲学の基本的な見方を知らなければどうしても物事を認識するにあたって一面的な理解になってしまいます 問題を非常に静的に見るあるいは簡略化して見てしまうということです しかし生命というのは静的なものではなく常に運動しています だから静的に見るというのは誤りです
気功も運動しています 皆が興味を持ち始めているということは気功が運動しているということです それが良い方向への運動なのか良くない方向への運動なのかそれが問題なのです

自養其生(じようきせい)の思想

池見・・・

治療の中で患者自身が治療の主人公になるという問題があります これが私どもがかねてから強調していることですし気功の中心でもあると思うのです さらにこれからの医療を考える場合この問題はとても重要なことではないかと思うのですがいかがでしようか 病気になったら医者に身体を預けるということではなくあくまで治療は自分でするのだという発想の必要性ですね それに対しては医師はアドバイスをする立場に徹するということです これは予防医学という発想にもつながっていくと思いますし医療費の高騰を抑えるということにもつながってきます それが人間回復の医学です

焦・・・

医師が患者の病気を診るというだけの関係ではなくてひとりの人間とひとりの人間としての関係友人としての関係になるというが私の考え方です
私は臨床に際して常に自養其生ということを強調します 患者が自分自身内に持っている力で病気を治しより健康になっていく 自分の内部に眠っている力を最大限引き出ししかも養っていくというのが自養其生の核心です それは人間が自然界の中でどのような形でよりよく生存していくかという問題でもあります 人間の生存に関しては正常な生命活動を行なうにあたっていくつかの条件があります
その条件とは自然界との関連の中で内と外というように分けられると思いますが外というのは空気や水のことです これらを用いるのは外養其生ということが言えます これは飲み物食べ物着るものなど全部整えて自然界の中でより良く自己の生命を養っていくということです 外界の条件は多様ですが仮に個人にとってまったく同じであると仮定した場合でも人間の健康状態は多様です そうするとこれはその人自身の内部の問題であると言えます 例えば良い薬を使っても効果が上げられなかった人が練功によって薬物効果が上がることがあります これは練功を通じて身体の内部に変化が起こったということです 池見先生の言葉をお借りすれば練功による暗在系の活発化ということです 人は誰も暗在系の能力を持っています 潜在する能力は本人だけでなく親から受け継いできた遺伝的な要素もあります ほとんどの人は現在主に外界の条件に注意を払っています しかし暗在系の本能を認識しそれをより良く発揮させる問題は重視されていません
この外養其生に相対するものとして内養其生というものがありまず これは暗在系の持つ本能をより良く発揮させることです
この内と外は分けて考えることはできません 当然一緒に考えなければなりません この二つの関係をより良く統一して調和を保つことが大切です そのためには第一に人体自身の統一です それには精神と身体の統一が重要です それから外界の影響の問題に関してはそれをより良く統一して私たちのために役立てる これは人と自然との統一です 人間の生存を孤立的に考えるのではなく大宇宙の角度から考える必要があります 外養其生に関しては多くの人が研究をしています 自養其生に関しては気功はきわめて効果的な訓練方法だと私は考えています それはいかにして暗在系を発揮させるかという問題でもあります

池見・・・

それが コントロールなきコントロール ということです

焦・・・・

コントロールなきコントロール というのは高いレベルにおいてのことだと思います

死の臨床について

池見・・・

現在日本ではガンなどの患者さんにガンという病名を告げるかどうかが大きな社会間越になっています これを不用意に告げますと患者は大変ショックを受けて残された命を縮めてしまいます だから本人の死に対する心構えをどうするか 死というものを自己の平素の生活の中でどのように受け止めていくのか 東洋では昔から茶の湯などでも 茶をたてるのはこれが最後だという心構えでたてよ と言われています 平素からそういう訓練をしているのです 茶道には 一期一会 という言葉もありますがこれなども死に対する訓練といえましよう
昔の家族は何世代も一緒に住んでいましたから上からだんだんに死んでいきますと残された者は覚悟ができてくるわけです これは非常に大事な教育的経験なのです しかし現在では核家族化したためにそのような体験をすることが困難になってしまいました
日本の教育では茶の湯に代表されるように 死の教育 すなわち常に死を覚悟して今を生きるということが基本なのです 近頃それが見失われつつあります
ガンの末期になって医師から見捨てられた患者がいます そういう患者さんでガンと宣告されてから十年も二十年も生きている人もいます 医学的には完全にアウトなのです それにもかかわらず生き続けている人を私どもは日本でも六十人も観察しています 何がそうさせたかを調べてみるとかねてから東洋的な 死の教育 を受けていた人が多いのです それは一種の信念(死生観)でもあります ところがそれがなかなか深まりません ガンの末期と言われて初めて限りある命を生きる人間の本当の姿に目覚める人があるのです 人間は毎日毎日死に近づいているのだから今日の一日一日を大事にして周囲と調和していかなければいけないということが分かる これは人間の本来の姿でありこれへの開眼を 実存的転換 と言います 外国の自然退縮例でもそうですが日本では特にこれがポイントになるようです このような事実は自然退縮を起こした人の血液がもつガンに対する抵抗力の変化などの医学的な側面からも証明されています
死を覚悟して生きているのが人間の本来の姿だということでありこれによって人間の本当の生き方が分かるわけです
外国でもそういう研究がされてきています 例えばガンが縮小することもあるのです。そういえば今度ハーバード大学のロックという助教授の"The Healer Within" (邦題内なる治癒力創元社刊)という本の翻訳が出されますね これは精神神経免疫学といって患者の精神状態がガンをはじめさまざまな病気の治癒にどのように関連しているかを科学的に捉えたものです この本の第一章に私たちの研究(中川俊二池見)のことも紹介されており私はこの本の監修者もしています
患者が宇宙の気に支えられて生きていることを自覚するそのような領域に気功が本当にかかわっていくならば 死の臨床 に一番重要な役割を果たすものと私は考えます
生きているのではなく生かされているのです 私 が宇宙に生かされているならば死ぬことは宇宙に帰ることなのです 東洋では 死すること帰するが如しと言います

焦・・・・

そうすると死に対して楽観的な態度が取れるということになります 死を自然なものとして受け入れるということです

池見・・・

死と向かいあった時にかねて気功をやっていた者は自然に死に立ち向かうことができるかどうか 中国の養生学は長生きすることばかりで死に対する姿勢を養うという点では足りないように思います 日本のわびさびの文化のような厳しさが足りないのではないでしようか 私が気功に関して引っかかっている点の一つはそこにあります

焦・・・・

孫子の兵法の言葉があるのですが 死を覚悟したところに生が見える ということです これは日本の死生観と共通するものです 死中生在り ということです

池見・・・

気功に本当に撤すれば宇宙と自分が一体になるわけです そうすれば自分が宇宙の中に生かされているということに気づくのです 動物や桜の花などの短い命と自己の命の共通性がしみじみとわかってくるはずです そうすると自然と死に対する構えができてくるのです それが本当の気功の世界ではないでしようか

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